安倍元首相銃撃事件を機に問われる“カルト”そして宗教のありかた。宗教問題の現場・最前線で活動してきた研究者・宗教者6人が一堂に会し2回シリーズで徹底討論した番組を見ました。
カルトを定義する必要がある、カルトとはなにか?宗教とどう違うのか?
カルトを定義すると宗教とは何かも問われる
この番組の中で、印象に残った言葉・見解
宗教とカルトは似て非なるもの
宗教は出入り自由
宗教は一歩間違えばカルトになるので歯止めが必要
3つの歯止めがある
1、恐怖(人を縛り付ける=カルト)これをやったら宗教ではない
2、搾取(持たざる者から搾取=カルト)これをやったら宗教ではない
3、拘束(自由がない=カルト)これをやったら宗教ではない
宗教は出入り自由、扉に鍵がかかっていない
宗教がカルト化しないために必要な自由とは?
・・・とても熱心に宗教活動していた人が、ある時から信仰から離れて教会にこなくなった。この場合教会にできることは、その人の為に祈ることぐらいです。無理に教会に来るよう説得すべきではない。サタンのささやきだと脅してもいけない。離れてもいいのです。人には迷う自由がある
宗教がカルト化しないために、宗教者は常にこの3つをしていないか自らを点検する必要がある
宗教は迷ってもいい、カルトは迷わせない、カルトはコントロールするのが目的
釈 撤宗さん(僧侶・宗教学者)
宗教とカルトの違いは、宗教間対話ができるかどうかということ
絵画の手法に「近景」「中景」「遠景」というのがあるこれをこの問題にあてはめてみると
近くのものを描く「近景」は私や家族の問題
中間のものを描く「中景」は、文化や地域コミュニティ
遠くのものを描く「遠景」は聖なるもの
カルトや原理主義は「中景」が痩せていて、自分と聖なるものが直結している。
(自分と聖なるものが直結していると宗教体験となり、とても力が強く日常なんて簡単につぶされてしまう)
宗教間対話が成り立つためには分厚い「中景」が必要。
分厚い中景があるかどうかもカルトの定義になる
討論した6名の方は
川島謙三・牧師・日本脱カルト教会顧問
小原克博・牧師・同支社大学教授
若松英輔・批評家・随筆家
釈 撤宗・僧侶・宗教学者
11/7の日曜討論で小池晃さんは、統一協会の被害者救済については、国会で全政党が参加し、解決策をつくることを主張。
私もそう思う、今4党(自民党・公明党・維新・立民)だけでやっているが、マインドコントロールの定義で行き詰まっているのでは?
マインドコントロールの定義ではなくカルトの定義からやるべきでは?
邪推かも知れませんが、自民・公明・維新はこの問題をうやむやにするために立民を巻き込んで、国民をけむに巻き、“難しい問題はできなんだ”と無力感を植え付け結果、統一教会を守ることにならないか!?懸念しています。