金がないため命を失ったらそれっきりだけど、命があれば、また稼ぐことができる。
あるいは、高齢や病気、障害で稼ぐことができなくなって、生活保護を受給しても、それを消費して地域社会に還元し、経済貢献ができる。税金を支払った人に返す役割を担うことができる。お金がなくったって経済活動はするのである。
命があれば、自分の役割を果たすことができる。
障害者は「かわいそう」な存在だろうか?
かわいそうだから助けてあげなければならないのだろうか?
今かわいそうでない人が、かわいそうな存在になる可能性はある。
かわいそうな人とかわいそうでない人の違いってなんだろうか?
障害者の存在は多くの専門家を必要とし、専門家を生み育てる。
誰がいつ障害者になっても大丈夫な社会をつくる。
障害者の存在は専門家を養う。
結局、障害者も経済活動や社会貢献することになる。
人間はアリや蜂と同じように社会を作って生きている。
社会にとってその構成員である命の存在こそが出発点なのではあるまいか。
人の責任には限界がある。
生まれる前から他者に命を守られ、自分も含めて多くの力を合わせて生まれてきたのではないか。
素っ裸で金は持たずに生まれてきて、乳を欲しがれば与えられ、下の世話もしてもらってきたのではないか。
そんな存在なのに、どうして自己責任なんて言えるのか、私にはさっぱりわからん。
まず先にあるのが命で、その命を継続するために金が必要になるのではないか。自己責任って順序が逆だ、金が命より大事な世の中は社会として成り立たなくなり、消滅するのではないか。
もっと不思議なのは、自助自助と叫ぶ人に限って公助だのみなこと。
大阪市のお金は市民の命を守るためのお金なのに、それを市民からむしりとって、府に移し、府はそれでいわゆる“成長戦略”と名付けた、カジノや空飛ぶ車につっこむのであろう。人の金に頼っている。
しかも成長でもなんでもない、だたの浪費だ。カジノに至っては不道徳でしかない。
空飛ぶ車はファンタジーだし。住民投票の審判が下ったのに、条例でやるといいだす始末。これも、もはや不道徳。上品なことで定評がある某政治家に、ついに邪悪だと言わせてしまった。